人生ゲーム。

人生ゲームって知っていますか?

サイコロやルーレットの出た数によって「人生の筋道」が決まり、止まった所で色々なイベントがあってその後の人生が左右されて行き、人の一生になぞらえた“イベント=人生”をこなしながらゴールを目指す、というボードゲームなんですけど。子供の頃、友達や家族なんかと一緒に遊んだ事があるかと思います。僕も兄とよく遊んでいました。

思うのですよ。

どうしてこの世に生まれてきたのかな?って。考えても考えても、イマイチ理由が明確ではないですよね?個人によってもそれぞれ生きる目的、職業なんかも違いますし、みんなに共通で絶対的な100%これだ!っていう明確な答えはわからないですよね。

ただ、1つだけ確実に分かっている事があるんですね。みんなに共通して言える答えがあるんです。

この世、っていう僕らがいる所は、神さまが作った(かどうかはわかりませんが、僕はそうかなと想像してます)このたった1つのルールの下で動いています。この地球って所で命を受けて生まれてきた全ての生き物は、必ず始まりと終わりがある、っていうルール。お金持ちでもホームレスでも、有名な映画俳優でも近所のスーパーでお客さんが放置していったカートを集めて一生懸命片付けているバイトの子でも、魚もライオンも、木や花も、僕やこれを読んでいるあなたもそうだし、この世の生き物は、必ず、差別もなく、必ずみんな平等に終わりが来る仕組みなんですね。

書こうかどうか、しばらく悩んでいたのですが、文章にしてみる事で、こう、自分の気持ちの整理がついたりするので、気持ちを落ち着ける意味でも書いてみよう、と。

2020年4月。

兄を癌で亡くしました。

2017年に腫瘍が見つかった時、すでにステージⅢで、生存確率は18%もないだろう、とのこと。

兄と僕は、”あんたらの性格、物事の考え方は、ホントに真逆だわねぇ(笑)”と母が言うくらい、子供の頃からぜんぜん違っていたそうで。僕の場合、18歳の時に実家から脱走離れて一人暮らししているので、自分で失敗して、たくさん痛い思いをしないと何が大切なことなのか気が付けないワケです。

東京で音楽学校に通ってた頃、食費に使うお金があるんだったら、その分、CD買えるんじゃね?と気が付いて、毎日毎食、小麦粉溶かしたお好み焼きだけ食べてたんです。最初は卵入れたり、豚肉、キャベツ、マヨとおた○ふくソースかけて、まぁ、時には焼きそばなんかも一緒に作って、、、とやっていたのですが、ある時フっ、と気がつくワケです。

あれ?肉いらなくね?って。

もっともっと突き詰めていくとですね、じゃ、キャベツもいらないし、もう、マヨもソースもいらないよね?って、なりますよね。おたふ○くソースなんてそんな贅沢は出来ない、勿体ない、オレは何様なんだ、と。

小麦粉を水道水で溶いだだけの、お好み焼き的なモノを食べて生活するようになって。近所のスーパーで220円だったと思います、小麦粉1パック。食費が1週間220円ですよ。これにたどり着いた自分は天才かと思いましたね。で、お金はすべて中古CDにつぎ込んでいたんですね。当時、新宿には中古のレコード屋さんがたくさんあって、バイトがない日は友達と一緒に朝から晩までショップを漁っていました。電車代もケチって、住んでいた幡ヶ谷から新宿まで歩いて行くのは言うまでもありません。で、お店に入ってCDを片っ端から見て回り、ジャケット見て、参加ミュージシャンの名前も見て、え?ギターにマイケル・ランドー参加してるぞこれ!うわー300円もするのかぁ、250円だったら買うんだけどな〜、とかやってました。

案の定、ある日突然、起き上がれなくなってしまいました。栄養失調です。

いざ、出陣。

その後、音楽学校を離れて、アメリカにあるニューオリンズという街で演奏の仕事をするようになります。ニューオリンズはジャズの発祥地なだけあって、とてもメジャーな観光地ですので、メインの通りには観光客用の生バンド演奏が見れる飲み屋やダンスホール、エッチなストリップ・ダンス芸術的な舞踏会をご視聴できるクラブなどが数え切れないほど並んでいまして。で、僕がいた当時は、ほとんどのお店が24時間営業、という色んなコトが狂っている所です。賭け事ができるカジノもありますので、デニーロやスコセッシの映画で見るような怖い人たちが管理している世界も当然あります。

クラブで演奏、となると、賄い料理が出るんですね。典型的なアメリカンすぎて笑われそうなんですけど、ハンバーガーにポテト、それとビールが出てくるんです。ニューオリンズ、という場所柄か、演奏中(=仕事中)のミュージシャンはお酒タダなんですよ。なので演奏する日はいつもハンバーガーにポテト、お酒を浴びるほど飲むんです。それを週に5日、下手したら1週間毎日そんな生活です。仕事がない日でも、頻繁に演奏しているお店なんかに行くと、あれ?タカ今日はどうしたの?まぁ座れよ。って言ってハンバーガーとポテト、お酒を好きなだけ奢ってくれるんですよ、お店のオーナーさんが。ヒドイもので、そんな生活をしていると、オン・オフに関係なく僕がクラブに入るとご飯=ハンバーガーとお酒が無条件に出てくるようになってて。

で、ある時フっ、と気がつくワケです。

あれ?普段の食事いらなくね?って。

もっともっと突き詰めていくとですね、じゃ、ハンバーガーも脂っこいから不健康じゃね?ポテトとビールでいいよね?って、なりますよね。当時の僕は、ガチで練習を一番していた頃で、他のことをする時間が鬱陶しかったんですね。で、食事する時間、寝る時間、っていうのもホントに鬱陶しくて。クラブについてセットアップしてポテト食べて、演奏して、で、お酒飲んでればカロリー足りるでしょ?っていう。

案の定、ある日突然、演奏から帰ってきたら台所の前で突然目の前が真っ暗になり、気を失ってしまいました。いやー、やってしまいました。2回目の栄養失調です。

そんなことをやってて、それが当時の僕のギターの先生の耳に入り、タカのメンタルが危ないぞっていう話になり、その先生が、※スティーブ・マサカウスキーに習ったほうがいいよ、って推薦状を書いてくれて。

※ニューオリンズ出身で7弦バリトンギター弾き。ジャズギター(特にビバップ)やる人は絶対にチェックしたほうがいいです。ジョー・パスに捧げたアルバム「For Joe」は必聴です。本物のビバップのタイム、スウィング感をギターで正確に表現する人はウェス、メセニー、ショーン・レビット、バーンスタイン、カート、モレノ、あとマサカウスキーくらいしか僕には思いつきません。今のコンテンポラリー・ジャズでは必要ないタイム感・スウィング感かと思いますが、習得したい人はぜひ聴いて見てください。

僕のギターの先生がマサカウスキーさんと段取りつけてくださっている過程でですね、じゃ、ついでに?という感じで彼の7弦バリトン・ギターを製作したヴァイオリン製作家を紹介してくれて。次の演奏の仕事がある日にみんなで会おう、ってなりまして、先生がヴァイオリン製作家(サルバドーレ・ジアルディーナさん)をわざわざ連れて来てくれたんです。

そのヴァイオリン作家のサルさんが、じゃついでにどう?という感じで当日連れてきてくれたのが、チップ・ウィルソンという元ギター製作家。ちょっとややこしくなってきたのですが、このチップさんが重要なんです。この人、ロジャー・ボーリスというアーチトップ・ギター界では名の知れたボーリス・ギターをロジャーと2人で立ち上げた人なんです。ロジャー・ボーリスはダキストの数少ない弟子の1人です。

チップさんもジャズギタリストとして演奏の仕事をしていて、その時初めてお会いしてからは、僕と一緒に演奏したり、お互いの演奏を見に行ったり来たりするようになり、色んな話もするようになって、ギター製作の話をするようになり、実際にお家に呼んでくれて自分用に作ってるギターを見せてくれたり、ダキストと一緒に仕事をしたりアドバイスをしてもらったりしたエピソードなども話してくれるようになったんですね。

で、ある時フっ、と気がつくワケです。

あれ?オレもちょっとギター製作家になろうかね?って。

23歳の時です。いやー、若さ・無知って恐ろしいです。製作家になる、と決めたところでどうしていいか分からないし、何から手をつけていいのかすら見つけられない状態で。チップさんやサルさんにお願いして教えてください、って言っても、自分でやってごらん、って言うばかり。

今だからわかるのですが、まったくその通りで。自分でやって見るしかないんですよ、教えれないんですよ、楽器製作って。感覚的や直感的なことを頭の中で追って行って、それを楽器を通して音に出るように作るので、この感覚で持っているモノを他の人や弟子に伝えるのが難しいんですね。師匠についたからと言って、作れるようにはならないんです。自分で気がついて、師匠がいればそれを観て盗んで、自分の手を動かして作って、弦を張って、音を聴いて、次はどこをどうやったらもっといい楽器が作れるんだろう?って考えて。それを繰り返すんです。

何回頼んでもチップさんに突き放される日々を過ごしている時、フィラデルフィアで製作していたビクター・ベイカーという作家と偶然に知り合ってメールのやり取りするようになって。ビクターもジャズギタリストで(メチャクチャ上手いです)、今現在のアメリカでもほとんどいないのですが、実際にプロの演奏家で製作家でもある、という稀な人で。特にジャズギターではどちらもプロ、という人はまずいません。

そのビクターのところへ弟子入りする、ということになるワケです。せっかく書いて頂いたマサカウスキーさんへの推薦状を蹴って、ニューオリンズからフィラデルフィアに引っ越して、製作家としてやって見ることを始めたんですね。実際に会うまでビクターがどれだけギターが上手いかは知らなくて、初めて一緒に弾いた時、上手すぎて愕然としました。チップさんからは製作家と演奏家の両立は無理やで、と散々言われていましたので、製作家になるということは大好きな演奏を辞めることと決めて弟子入りしたのですが、ビクターに会えたのは本当に奇跡だと思います。

仕事は一応、9時から始めるのですが、ビクターって毎朝仕事の前に2時間くらいギター練習するんですよ。日によってはジョギングもしたり。1日の終わりには、自分で晩御飯作って、当時の彼女(今の奥さん)と僕と夕飯食べて。夕飯も、昨日は肉食べたから今日はサラダにしようぜ!って感じで、健康管理もしっかりするんですね。演奏の仕事があれば演奏しに行き、終わればグダグダ飲んだくれもせず、すぐ帰宅して翌朝の製作に備える、って感じで。製作と演奏を両立してて、それを目の当たりにした僕は、ある時フっ、と思うワケです。

あれ?頑張ったらオレも両方できるんじゃね?って。

そんなビクターのところで製作していたある日、当時、ニューヨークにいたマルキオーネ大親分とメールをやり取りするようになり、そこから時々電話するようになり、ある日オヤヴンから、弟子に来ないか?と誘われて、今度はテキサスへ引っ越す、という。

マルキオーネの元で11年過ごした後、2015年に独立して自分が想う理想のギターを追求するようになりました。

それで2017年。

ある日、母から泣きながら電話がかかって来て、兄の癌を知らされたんですね。ステージIIIであること、生き残る確率がとても低いことを知らされました。

ですが、不思議なことに、抗がん剤やお薬との相性が良かったのか、兄の身体から癌が消えたのです。毎月の検診で身体をスキャンしても腫瘍がみつからず、本人はもちろん、癌センターの先生方もとても喜んでくれて。こんなことが起こるんだな、と。2018年は癌が兄の身体に存在していない状態でした。

兄とメールをやりとりしながら、言ったんです、こんなことは有り得ないんだよ、生きるチャンスをもう一度貰ったんだから、色々と見直さないといけないよ、と。

幸か不幸か、僕の場合、若い頃から自分の天才的な勘違いで何度か逝きかけています。自分の身体に取り込むモノの大切さを痛いほど理解しているので、タバコも酒もやりません。自分で何回も失敗しているし、一緒に演奏していた仲間のミュージシャンたちが不摂生で病気になったり身体に取り込んではいけないモノを過剰摂取して才能を潰してしまったり亡くなったり、というのを散々目の当たりにして来たので。

ただ、母が言うように、僕と兄はまったく逆の考え方をするらしく、、、。死人に口なし、とある通り、今の兄には僕と議論できません。お互いフェアに言い合える状況ではないので、特に言うこともないかな、と。こればっかりはしょうがない。

定期検診でも転移すら無く日々を過ごしていた兄ですが、2019年の6月から右腕に痺れが出るようになり、会社にいけなくなりました。

検査をしても、血液を調べても異常がみつからず、腕の痺れが取れない状態がずっと続いてたのですが、12月に入った頃から急に物が2つに見えるようになり、顔に麻痺症状がでるようになりました。検査の結果、どうやら脳に転移が見つかったらしく、入院となりました。

入院してからは今まで有効だった薬もまったく効かず、その後の進行がとてつもなく早くて、1月中旬には背骨にまで転移が見つかり、会話が出来なく筆談になり、聴覚を失い、段々と目も見えなくなりました。

そして4月7日。

両親に見守られて静かに息を引き取りました。44歳でした。

僕らが子供の頃、祖母に言われた事があるんです。お昼間、買い物か何かで一緒に歩いて散歩してた時、小さな神社の前を通りかかりました。神社というより、観音様をポンって無造作に祀ってあるだけの本当に小さなところを歩いて通りかかった時に、おばあちゃんが、”物事とか人を見るときは、見ちゃダメだよ。観るんだよ。見るっていうのは自分の目で見るんだけど、観る、っていうのはね、観音様の眼で物事を観るんだよ。わかったかい?”

その時は意味が分からなかったのですが、このことは不思議と今でもハッキリと覚えてて。見るっていうのは自分の身の周りで起こっていることを、”自分の物差し”で見ることで、観るっていうのは、神さまの物差しを借りて、今の自分、自分の廻りの状況を観ることなのかな、って思うのです。

自分の物差しとは、兄がいなくなって悲しい、とか、なんて不公平なんだ、と僕の目で物事を見ることで、神さまの物差しで観るというのは、その過程はどうあれ誰にでも終わりが在るよ、と神さま眼線で物事を観ることです。

人生ゲーム、という神さまがつくったルールによれば、合っているんです。兄にもみんなと平等に始まりと終わりがあるのです。

どこで読んだのか誰かから教えてもらったのか覚えていないのですが、お釈迦さまの有名な話があります。

「例えば、海に1匹の目の見えない亀がいて、100年に1回だけ海上に浮かび上がることが出来る。その海には1本の木がプカプカ浮いてて、その木の真ん中には穴が1つ開いている。目の見えないその亀が100年に1回だけ、海上に浮かび上がった時、プカプカ浮いている木のその穴から顔を出すことがあるだろうか?」

お釈迦さまのお弟子さんが、そんなことはあり得ません、って。

「そんなことはあり得ない、と思うだろう。でもね、何千年何億年、何兆年と永い間には、絶対にあり得ない、とは誰にも言い切れないよね?人間に生まれる、ということは、これよりも難しいんだ。本当に有難い(あり得ない)ことなんだよ。」

あり得ない、有難い、っていうのは、そこに有ることが難しい、という意味で、僕も、これを今そこで読んでいるあなたも、家族、職場の同僚、スタバの店員さんも、皆そういうあり得ない確率で生まれてきて、カジノのマフィ◯アもびっくりするような天文学的な確率で出会って、そういうあり得ない確率同士で人間として生まれてきた私たちが、親と子、兄弟や姉妹、友人関係になったり道ですれ違って軽く挨拶したりされたり、、、と。

そういう確率で生まれて来た人から何かして貰うことっていうのは、本当にあり得ないこと、そういうことがこの果てしなく巨大な宇宙という中に在る微生物程度の大きさの地球という、宇宙の時間の流れから観れば、瞬き程度のホントに一瞬の出来事の時間軸で起こっている、、、ということなのだそうです。

そこから、有難い=ありがたい=ありがとう、っていう感謝の言葉になった、と。

兄がいない、と言う事実が今だにウソのようで、自分が本当に情けないのですが、身体が重く音楽や製作に取り掛かれず起き上がることが出来ない日があります。

兄との会話の記録、メールのやり取りが残っているのですが、今日まで目を通すことが出来なかったのですが、今、改めて読み返してみました。会話が出来なくなる前、兄から届いた最後のメッセージにはこう書かれていました:

「人間だから、犬だから、とかじゃなくて、せっかく愛するパートナーに出逢えたんだから、タイガ(僕の犬)にもいつもより一言でも多く声をかけてみなよ。今日も頑張ったね、ってお互いに癒せるじゃないか。

大切なのは、出逢いという”縁”だから。まずは自分の周りにいる人に感謝すれば、その”縁”が”絆”になって、自然とみんな笑顔になるんじゃないかな。少なからずオレはタカがやって来たこと、今活動していること、間違っていないと信じてる。勇気と元気もらっているから大丈夫。いつもありがとう。」

僕みたいなものに製作を頼んでくれた方々、また、興味を持ってここまで読んで頂いた方々、どうもありがとうございます。

このような状況ですので、新年のご挨拶は控えさせて頂きますが、本年も皆さんの元へたくさんの縁が訪れますよう、遠くからですが手を合わせています。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

兄へ。

向こうの世界では、婆ちゃんの手料理を食べ、好きな酒を飲み、毎日ゴルフばかりする生活になると思いますが、分かっていると思うけど、食べ過ぎ飲み過ぎには気をつけて、次にまた再会する日が来るのをのんびり待っていて下さい。あなたの弟として生まれて来れて、本当に幸せでした。ありがと。